"エロい"しか言えない日本人〜僕が河でヌいた日〜①


皆さんこんばんは。

コロナの話題で世間が埋め尽くされてから早、一年半。いかがお過ごしでしょうか。


大々的に営業されてる飲み屋さんの数も減ってきて、所謂ナンパなんかの色恋沙汰を目撃する回数も減ってきました。

魅力的な人を見た時に発せられる"エロい"という表現に対して私は幼い頃からいささか懐疑的でありました。

というのも、英語のような比較的シンプルな文法構造(SVOC)をとらない日本語は言うなればbetween the line=行間の読みがい・奥行きという点でしかメリットがないのではと常々思うわけです。

この日本語の文法構造が、日々お仕事をしている中で結局何が言いたいの?何を指示しているの?という焼きもきする時間を生む根本的な原因の1つでもあると思うわけですから大きなトレードオフです。

このトレードオフを考慮しますと、小生は魅力的な人を見た時に"エロい"という言葉を使うのに少なからず抵抗を感じてしまうわけで何か21世紀の「月が綺麗ですね」に代わる言葉を生み出したいと日々頭を悩ませているわけです。

この命題に正面から取り組んだ時に私の脳裏にある人物が浮かびました。

ブラーマグプタ。そう0の概念を創り出したインドの数学者です。

つまり簡単に纏めると下記の通りになります。

①私達は魅力的な人を見た時に直感的に"エロい"と表現してしまう。

②この時、我々は無意識に"エロい"という形容詞を主に人間に限定している。

③しかし、その前提に成り立って導き出された"エロい"、"エロくない"の言葉の定義範囲は極小であり、従って我々は定義内でしか物事を捉えることができない。=本来エロいものに対して脳が捉えられていない可能性がある。

④エロいという言葉を再定義する必要がある。

対象は人という定義を自らの意志で取り払ってみる。


この事から私は芸術もしくは自然の風景で興奮することが出来ないか模索することにしました。

しかし、言うは易しとはまさにこの事でこれには苦労しました。

まず興奮するかしないかはこの際度外視するとしても美術館やら山の中やらで直接的な刺激を自らに与えることは法律で禁止されているわけですから。

公共の福祉に反しない範囲で行う必要性があるわけです。加えて、その対象が自らが行なっている行為に対しても包容力があるような規模・存在でないといけないわけです。(可哀想なAVはヌけない理論と同じでこの絵の作者はこんなことされて嫌だろうなという考えが頭によぎった時点でチャレンジ失敗です)

こうした暗中模索の状況で行き着いた解、それがガンジス川でした。

〜もう眠いので寝ます。続きはいずれ。〜

電気羊の夢を見なくなった話

僕はフロイトじゃないんですが

最近は自分の夢(寝てる時のやつであってキング牧師の方ではない)があまりに面白く無くなってきたのでここに書かせてください。

ハクスレーの『知覚の扉』にも述べられている

言語化、論理化を重視する人にはビジュアル的なトリップは担保されないというのは真理なんじゃないかと思うようになりました。

子供のうちは感情に沿って日々をただ生きることができて、それが美徳とさえ謳われるのに、いざ社会に出るとその純真さは美徳でもなんでもなく"幼さ"と人からは言われるようになり、それが嫌で目一杯背伸びをしているうちに全く背は伸びていないのに、自分より目線の位置が低い人を低身長(幼い)と蔑むようになるこの小賢しいループは逃れようもないのでしょうか。

小学生の時は空飛ぶ綿飴の羊毛に覆われた羊やら、皮膚が牛皮レザーのお姉さんが夢には出てきてけれたのに、今の夢はそれこそ職場やら何やらやけにrealisticなものばかりで朝起きると辟易とします。

人の目を気にせず一人一人が幼いSFの作者となる権利のある"夢"を奪われた大人は子供にどのような気持ちで絵本を読み聞かせればいいのでしょう。

それとも今後、絵本というものは無くなっていくのでしょうか。

アンドロイドのみならず、デジタル・トランスフォーメーションやユーザー・エクスペリエンスを謳う我々すらも電気羊の夢は見られなくなっていくのだとしたら、アンドロイドに比べて我々はどこが優れているのでしょうか。




電気羊の夢を見なくなった話

僕はフロイトじゃないんですが

最近は自分の夢(寝てる時のやつであってキング牧師の方ではない)があまりに面白く無くなってきたのでここに書かせてください。

ハクスレーの『知覚の扉』にも述べられている

言語化、論理化を重視する人にはビジュアル的なトリップは担保されないというのは真理なんじゃないかと思うようになりました。

子供のうちは感情に沿って日々をただ生きることができて、それが美徳とさえ謳われるのに、いざ社会に出るとその純真さは美徳でもなんでもなく"幼さ"と人からは言われるようになり、それが嫌で目一杯背伸びをしているうちに全く背は伸びていないのに、自分より目線の位置が低い人を低身長(幼い)と蔑むようになるこの小賢しいループは逃れようもないのでしょうか。

小学生の時は空飛ぶ綿飴の羊毛に覆われた羊やら、皮膚が牛皮レザーのお姉さんが夢には出てきてけれたのに、今の夢はそれこそ職場やら何やらやけにrealisticなものばかりで朝起きると辟易とします。

人の目を気にせず一人一人が幼いSFの作者となる権利のある"夢"を奪われた大人は子供にどのような気持ちで絵本を読み聞かせればいいのでしょう。

それとも今後、絵本というものは無くなっていくのでしょうか。

アンドロイドのみならず、デジタル・トランスフォーメーションやユーザー・エクスペリエンスを謳う我々すらも電気羊の夢は見られなくなっていくのだとしたら、アンドロイドに比べて我々はどこが優れているのでしょうか。




精神的インポテンツ〜Netflixで疑似恋愛する人〜


ひたすらに繰り返される、いわゆるループ・永劫回帰に比べて、一度きりの再現性をもたないものは責任もなく軽い。


人は自分の人生が単調で半ばルーティン化した1日の連続であると感じると何もかも投げ出して海外なんかに行って気ままに生活したいと思う。

刺激的、運命的な出来事に出くわしたいと願う。


だが、自分の人生がその軽さだけになった時今度はこれまで辟易していた重さが恋しくなる。

なぜなら、社会が与える責任と肩書は間違いなく自分を規定してくれるものでそれが全くなくなった時人は自分の人生に張り合いを持てなくなるからだ。


今週は『存在の耐えられない軽さ』を読んだんだけれど中でも1番心に残った1句は、


「小説が偶然の秘密に満ちた邂逅によって魅惑的になっているとして非難すべきでなく、

人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」


だった。


この小説には度々、アンナカレーニナというトルストイの作品が登場するんだけれど

去年ドイツのミュンヘンで行き当たりばったりでバレエの公演に入ったらそれがアンナカレーニナだったんだ。

これにもうまさしく、偶然的な美しさ・ロマンチックな何かを感じ取れずにいられなかった。


人生を面白く、ドラマ性のあるものにするのは間違いなく偶然の出来事なわけだけれど。

それはもっと強い必然性のある理由があっても

無意識に人が偶然の方に着目して、それが唯一の理由であるかのように認識するんだ。


分かりやすく恋愛で言うと、

どうやって2人は知り合ったのって聞くと

大抵若い時は無意識に偶然性に着目してロマンチックな理由がでてくるものな気がするんだ。


たまたまコンサートで隣だったとか

1人でBARに飲みに行ってカウンターで出会って話したら気があって云々。


ただ、肌感覚である年を境に打算的で狡猾なことが美徳とされるのか

ロジックは通ってるけど聞いてて話の予想が通る人ばかりになる気がする。


それは、仕事の疲れから実用的かそうでないかという物差しに全てがすり替わって、そうでないものを1人で0から始める労力が湧き上がらないからに他ならないのではないのか。


偶然性、運命が全くない効率化されただけの人生は基本的にみんな嫌なはずだけれど、

その為には自分が日々の些細な出来事に偶然を見出せるだけの準備が必要で、それは音楽でも本でも何でもいいのかもしれない。


一日中部屋にこもってNetflixで擬似体験に浸ってもその中の主人公のようなロマンチックで刺激的な出来事が一般の勤め人の身に降り注ぐかと言われるとその可能性は天文学的に低い。


あの中の具体的な出来事は一つのメタファーだと理解した上で自分の今いる環境を見渡してみるとそれはそれで面白いのかもしれない。