電気羊の夢を見なくなった話

僕はフロイトじゃないんですが

最近は自分の夢(寝てる時のやつであってキング牧師の方ではない)があまりに面白く無くなってきたのでここに書かせてください。

ハクスレーの『知覚の扉』にも述べられている

言語化、論理化を重視する人にはビジュアル的なトリップは担保されないというのは真理なんじゃないかと思うようになりました。

子供のうちは感情に沿って日々をただ生きることができて、それが美徳とさえ謳われるのに、いざ社会に出るとその純真さは美徳でもなんでもなく"幼さ"と人からは言われるようになり、それが嫌で目一杯背伸びをしているうちに全く背は伸びていないのに、自分より目線の位置が低い人を低身長(幼い)と蔑むようになるこの小賢しいループは逃れようもないのでしょうか。

小学生の時は空飛ぶ綿飴の羊毛に覆われた羊やら、皮膚が牛皮レザーのお姉さんが夢には出てきてけれたのに、今の夢はそれこそ職場やら何やらやけにrealisticなものばかりで朝起きると辟易とします。

人の目を気にせず一人一人が幼いSFの作者となる権利のある"夢"を奪われた大人は子供にどのような気持ちで絵本を読み聞かせればいいのでしょう。

それとも今後、絵本というものは無くなっていくのでしょうか。

アンドロイドのみならず、デジタル・トランスフォーメーションやユーザー・エクスペリエンスを謳う我々すらも電気羊の夢は見られなくなっていくのだとしたら、アンドロイドに比べて我々はどこが優れているのでしょうか。