精神的インポテンツ〜Netflixで疑似恋愛する人〜
ひたすらに繰り返される、いわゆるループ・永劫回帰に比べて、一度きりの再現性をもたないものは責任もなく軽い。
人は自分の人生が単調で半ばルーティン化した1日の連続であると感じると何もかも投げ出して海外なんかに行って気ままに生活したいと思う。
刺激的、運命的な出来事に出くわしたいと願う。
だが、自分の人生がその軽さだけになった時今度はこれまで辟易していた重さが恋しくなる。
なぜなら、社会が与える責任と肩書は間違いなく自分を規定してくれるものでそれが全くなくなった時人は自分の人生に張り合いを持てなくなるからだ。
今週は『存在の耐えられない軽さ』を読んだんだけれど中でも1番心に残った1句は、
「小説が偶然の秘密に満ちた邂逅によって魅惑的になっているとして非難すべきでなく、
人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」
だった。
この小説には度々、アンナカレーニナというトルストイの作品が登場するんだけれど
去年ドイツのミュンヘンで行き当たりばったりでバレエの公演に入ったらそれがアンナカレーニナだったんだ。
これにもうまさしく、偶然的な美しさ・ロマンチックな何かを感じ取れずにいられなかった。
人生を面白く、ドラマ性のあるものにするのは間違いなく偶然の出来事なわけだけれど。
それはもっと強い必然性のある理由があっても
無意識に人が偶然の方に着目して、それが唯一の理由であるかのように認識するんだ。
分かりやすく恋愛で言うと、
どうやって2人は知り合ったのって聞くと
大抵若い時は無意識に偶然性に着目してロマンチックな理由がでてくるものな気がするんだ。
たまたまコンサートで隣だったとか
1人でBARに飲みに行ってカウンターで出会って話したら気があって云々。
ただ、肌感覚である年を境に打算的で狡猾なことが美徳とされるのか
ロジックは通ってるけど聞いてて話の予想が通る人ばかりになる気がする。
それは、仕事の疲れから実用的かそうでないかという物差しに全てがすり替わって、そうでないものを1人で0から始める労力が湧き上がらないからに他ならないのではないのか。
偶然性、運命が全くない効率化されただけの人生は基本的にみんな嫌なはずだけれど、
その為には自分が日々の些細な出来事に偶然を見出せるだけの準備が必要で、それは音楽でも本でも何でもいいのかもしれない。
一日中部屋にこもってNetflixで擬似体験に浸ってもその中の主人公のようなロマンチックで刺激的な出来事が一般の勤め人の身に降り注ぐかと言われるとその可能性は天文学的に低い。
あの中の具体的な出来事は一つのメタファーだと理解した上で自分の今いる環境を見渡してみるとそれはそれで面白いのかもしれない。